校長だより

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先生は生徒の教育環境のひとつ の続き

(2024/06/12更新)

みなさまおはようございます。いつもご覧いただきありがとうございます。

さてさて、昨日は先生は教育環境のひとつであり、教えられる立場を忘れたらアカン的なお話を書きました。今日はその続きであります。で、触れる内容は過去にも記載したことがあるものですので、再掲に近いかもしれません。

〇 「教えられる立場」を忘れないようにするには、気づかせていただける隣人がいてくれることが大事

世の中で、ドラマのテーマにもなり若い人に煙たがれる・・・、例えば『老害』なるものがなぜ出てくるのか?。私は、これは老齢の人の姿勢もさることながら、どのような年になっても『教え教えられ』『頼り頼られ』が希薄になってきているからと思うのです。だから、「人に教えたろう」ってなことが前面に出る、逆にこれは、自分の弱さを守る攻撃反応かもしれないのではと思うのですが。いろいろな人と接してきましたが、自分の本当の弱さや強さを知っている人は、人に教えを乞うことがうまい人が多い気がしてなりません。そして、そんな方々の周りには、老若男女問わず人が集っています。

冷静に考えれば、自分ってもんは、ええとこも悪いとこもある、できへんこともできることもあるわけで、できへんことをある意味恥じて、他人に聴ける勇気を持った人が人として大きくなっていくように感じるのです。私の武道の師匠は、その道では大家であり、私なんざぁ不肖の不肖のどんでもない弟子なのですが、師匠は、武技についても弟子とフラットに議論でき、自分のスタイルに固着せず、常にええもんを追及されます。さらに自分の苦手な分野は、気兼ねなく弟子に尋ねられ意見を求められます。本当にすごい人です。私は自分から積極的に入った世界ではなかったのですが、気がつけば40年近くご指導をいただいています。そんな先生を持っていることが私の幸運であり、私に意見をしてくれる後輩がいてくれることが、とってもありがたいのです。こんな環境では「老害」や「若造」なんて日本語は死語なのですよ。いや、社会ってもんは、こんな日本語が死語と扱われるようになる、みんな教え教えられ助け合える生きやすい環境づくりをめざさんとあかんのとちゃうかいなって、ちょっと真面目に考えるのです。

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